社員の大半は、兼業農家の主人や奥さんで、主な仕事を建設労務に置き、農繁期だけ農業に携わっていました。そのような建設業のあり方は、その当時の郡部においては当たり前の状況でした。
土工、基礎、型枠、鉄筋工、更には掃除・雑用なんでもこなす多能工集団、その100人が全員社員でまじめに仕事をするさまは、徐々に安成の評判を上げて行きました。
しかし、信次の目はさらに先をみつめていました。
信次の生まれた昭和31年、豊北町の人口は28,000人、それが会社に帰った時は22,000人。これが雪崩打って減っていくことが予想されました。
「これからの時代に対応していくために、我々は安成の伝統を守りつつも、大胆に変わっていかなくてはならない」。
その信念のもと、信次が音頭をとって始めたのが若手社員による「経営改革会議」。
有志が集まり、会社のこれからについて言いたいことを言い合うというもので、20代から40代の男たちの熱気が月に1度、夜中の事務所に充満しました。