豊北町から見ればはるかに大都会の下関に、私たちは「打って出る」ことになりました。
それは震えが止まらないほどの緊張感でした。
当時取締役企画室長となっていた安成信次は、設計や財務管理にいち早くコンピュータを導入、周囲をはらはらさせるほどの大胆さで理想の会社づくりを推し進めていきました。
ところが重大な問題がありました。民間で生きると言ったものの、ではそのために何をすればいいのか、どんな商品をつくればいいのかという肝心かなめの目標、すなわちコンセプトが、責任者の信次にとってさえ明確ではなかったのです。