私は豊北町大字北宇賀265番地で生まれ育った。通称「上畑」と言う。
狥留孫山と言う豊北町で一番高い山(標高660m)のふもとにあり下畑・上畑の二つの集落がある。上畑は最上流で行き止まりの集落である。以前は100世帯の家があり、八城小学校と言う、ちいさな小学校があった。私が卒業したときは6年生が13名。全校生徒が55名だった。卒業して2年目に廃校になった。
故郷(ふるさと)
故郷に帰った時は小学校跡地に行く。こんなに狭い場所にあった校舎と運動場が当時の私には「唯一の社会」だったと感慨に耽る。母校はなくなったが思い出はより深く胸に刻み込まれた。
なぜ、こんな山奥に住んできたのだろう?子供心に祖先を想った。このあたりの集落は毛利氏に滅ぼされた大内氏ゆかりのものたちの隠れ里らしい。小学校校歌の一節に「八つの城跡、畑の里・・・」とあった。八人の落ち武者が隠れ住んだのか・・?
父はこの山里の農家の次男として生まれた。少年航空兵学校へ入学が決まったと同時に終戦を迎えた。焼け野原になった下関の町を見て大工になる事を決めたらしい。生家の隣に主人と子供に先立たれた老婆が一人で住んでいた。若い見習い大工は自分の意思で安成のばあちゃんの面倒を俺が見る。と言って養子になった。弘中信良から安成信良になった。その後、母を迎え「安成家」が始まった。「一番最初に祖先の供養に安成家の墓を建てた。」この話は良く聞いた。
今から18年前、私は、父が亡くなった時に実家のそばに新しく墓所を移転新設した。
墓参りで手を合わせるたびに、自らの生き様は正しいかどうか?世の中のためになるかどうか?を問う。ここが私の故郷。
なぜ、こんな山奥に住んできたのだろう?子供心に祖先を想った。このあたりの集落は毛利氏に滅ぼされた大内氏ゆかりのものたちの隠れ里らしい。小学校校歌の一節に「八つの城跡、畑の里・・・」とあった。八人の落ち武者が隠れ住んだのか・・?
父はこの山里の農家の次男として生まれた。少年航空兵学校へ入学が決まったと同時に終戦を迎えた。焼け野原になった下関の町を見て大工になる事を決めたらしい。生家の隣に主人と子供に先立たれた老婆が一人で住んでいた。若い見習い大工は自分の意思で安成のばあちゃんの面倒を俺が見る。と言って養子になった。弘中信良から安成信良になった。その後、母を迎え「安成家」が始まった。「一番最初に祖先の供養に安成家の墓を建てた。」この話は良く聞いた。
今から18年前、私は、父が亡くなった時に実家のそばに新しく墓所を移転新設した。
墓参りで手を合わせるたびに、自らの生き様は正しいかどうか?世の中のためになるかどうか?を問う。ここが私の故郷。