その日、18時過ぎの羽田発・北九州行きの航空券を取っていた私は、日本橋本石町の、株式会社デコス東京オフィスでお客様と打合せをしていた。お客様はチルチンびと地域主義工務店の会の幹部である、千葉工務店の千葉さん、大丸建設の安田さんで、話の内容はデコスファイバー採用についての相談だったように記憶している。
打合せ場所である日本橋優和ビルは11階建てだが各フロアーは25坪くらいしかない小さなビルである。
突然、グラッと来て、4人で大きな会議テーブルの中に潜ったものの、その揺れ方の大きいこと長いこと。
千葉さん、安田さんは関東なので揺れに慣れはあるものの「これは、デカイ!」と相当焦っているようす。
なんせ細いビルなので、とっさにこのビルが倒壊するかも。というひらめきが頭をよぎり、「非常階段で、外に避難するわ。」と告げて、8階から江戸通りに避難。
(写真は デコス東京オフィスの前の常盤小学校に避難し、ビルを見上げる人々)
少し収まってから、ともあれ帰りの飛行機に乗るために、キャリーバックをもって羽田空港方面に行くこととした。
途中タクシーに乗ろうと止めると「お台場で火災だ。とても羽田は無理。」と言われ、とりあえずJR山手線沿いを浜松町方面へ歩いて移動、途中で泊まれるホテルを探すも空室が無く、自転車屋の店頭の自転車も次々売れていく有様。
新橋駅で商業ビルの壁面のTVに津波の映像が映し出され、これは只事ではないと痛感。
浜松町についたのが17時過ぎ、夕暮れと意外な寒さに、コートを持ってこなかったことを後悔する。
この構内にこのままいたら風邪をひくと思い、とにかく飛んでいるかどうかわからないが空港まで行くことを決心。
どうやって行くか?タクシーは行ってくれるか?と思案する中、目の前でタクシーが停車しお客を降ろした。羽田方面に行きたい。というとこれから横浜へ帰るとの事。飛び乗った。これで当面の寒さはクリアー。大渋滞しているのでどのくらいかかるかも不明のなか、空港封鎖のニュースを聞いて、ホテルはどこも無理だろうからと、平和島のスーパー銭湯に行くことを決定。
結果、21時過ぎにはスーパー銭湯で食事をし、サウナの中でTV報道にくぎ付けになりながら地震の被害の大きさを知った。
翌朝の便がとれ、下関に帰り着いたのがお昼前だったと記憶している。千葉さんに電話したら徒歩で帰る途中に浅草の小さな旅館に泊まることが出来、まだ越谷市の自宅に帰り着てないとの事。
つくづく、土地は地球からの借り物、自然の前には人の力は無力。と感じざるをえませんでした。
デコスは、湾岸道路の千葉で探していた第二工場予定地を変更し、地盤の固い埼玉県飯能市に用地取得を行い、翌2012年12月に新工場をOPENした。
令和3年3月11日
株式会社 安成工務店
代表取締役 安成信次